DATA

  • 1971年1月生まれ 水瓶座 AB型
  • 新潟県妙高市出身 同在住

幼少期

 新潟県妙高市で、男ばかりの三人兄弟の次男として生まれました。自然の中で育ち、遊びといえばもっぱら夏は山の中に入りカブトムシを追いかけ、冬は自宅の裏でスキーと、外で遊ぶことが大好きでした。
 

 小学校では水泳や陸上、剣道をやり、地域の大会に参加して入賞したり、その反面吹奏楽を始めて東京の大会へ代表として参加したり、勉強はほとんどせずによく遊びました。

 父は自動車整備士をしており、自宅でも機械を修理している姿を良く見ていました。子供ながらに機械が直っていく姿が格好よく、小学生ぐらいには自動車整備士になるのが夢でした。家では田んぼや畑をもっており、父が小さい頃から耕運機などの機械を触らせてくれ、その度に機械を動かすことが好きになっていきました。

 性格は普段はあまり活発とは言えず、誰かの後に声を出すような子供時代でした。けれども、ひとたびキレると手が付けられず、大人になった今でも「怒りの義晴」と言われ続けている始末です。

思春期

 中学校では吹奏楽部に所属し、トロンボーンという楽器を吹きました。勉強はほとんどせず、成績が良くなりたいとも思っていなかったので、いつも成績は中程度。部活ばかりの生活でした。

 小学校のときから自動車整備士になりたかったので、高校進学も地元の工業高校ときめていましたが、自動車会社が開いている社内高校が神奈川にあることを知り、しかも卒業後にそのまま入社できることを知った私は単身神奈川へ行くことを決意します。両親には反対されましたが、「自分の人生だ」と生意気なことを言い、中学卒業後、神奈川県に行くことになりました。

 神奈川県に一人で行きはしましたが、すぐにやってきたのがホームシック。今まで当たり前にあった山は横浜には無く、一ヶ月ほどは寂しくて寂しくて何度涙で枕をぬらしたかわかりません。「えらいところへ来てしまった・・・」と何度思ったことか。また、全く新しい環境で友達もゼロ。環境の変化に戸惑いも多い時代でした。このころから、「積極的ではない自分」にややコンプレックスを抱き始め、「もっと誰とでも仲良くできるようになりたい」「積極的になりたい」と思いながらも、できない自分がもどかしく、それをごまかしながら生活していた気がします。

青年期

 社会人になり、自動車整備士にはなりませんでしたが、エスカレータ式で自動車関係の仕事に就くことができました。先輩にも恵まれそれなりに楽しく生活していましたが、自動車関係の仕事に就いた時点で、それ以上夢があったわけでもなく、10歳上の先輩を見て、「10年後って、きっとこんなことしているんだなぁ」となんだか将来に疑問を抱きながらも、毎日なんとなく会社と寮の往復でした。幸い社内に短期大学もあったため、大学に進学することに決め、短期大学に進学しました。

 短大を終えて職場に帰っても多少役職は上がりましたが、そこは大企業。大卒高卒で職種の違いもあり、特に先に期待が持てぬまま、やはりなんとなく生活していました。それを払拭するかのように、遊びには力が入りました。スキューバダイビング、ミニバイクレース、自動車の改造などにお金をつぎ込みました。このころパソコン通信の存在を知り、パソコンで遊び始めます。当時からパソコン通信で気のあいそうな仲間がいるところを探し、いろんな集まりに出かけては友達を増やしていきました。会社での仕事には魅力がありませんでしたが、交友関係はとても楽しかった時代です。

第一次挫折期

 会社で部署移動があり、上司が変わることになりました。今までは仕事は特別面白いわけではなかったものの、上司との関係はよく人間関係には困ることはありませんでしたが、上司が変わって言うことなすことに制限をかけられる毎日が続きました。理論で追求されるような感じがあり、親身になってくれるようなこともなくさすがに会社に行くのが嫌になってきました。新潟の実家は両親が二人きり。私が帰ってあげて実家を継ごう。表向きは両親のためということにして、実際は人間関係が嫌で、会社を辞めることを決意しました。また、15歳で家を出て、18歳で社会人になり、社会人10年目という節目もあったことが決意する理由の一つになったのかもしれません。

 自動車会社では、たくさんの先輩後輩に恵まれ、また、パソコン通信で知り合った仲間にも恵まれ、今でもお付き合いがある方も多いです。この頃から、「人間関係って大事だな」と思うようになりました。

技術者期

 自動車会社時代にコンピュータに触れ、プログラムを組むことが出来たことから、帰郷後はコンピュータ会社に入りました。大企業と違って、お客様と直接接したり、自分で判断したことがコンピュータのシステムとして実現し、形になっていくことがとても楽しく、技術の習得に没頭しました。納期が間に合わず、会社に一ヶ月泊まりこんだこともありました。それでも「自分でやっている」という感覚を味わえましたし、技術力では信頼されるようになってくると、もっと技術を極めたい、技術者であり続けたいと思いました。小さいころは自動車整備士になりたいと思っていましたが、コンピュータでも「自分の手で作り上げる感覚」が共通していたのかもしれません。

 そんな私も30代を向かえ、若手がどんどん入ってくると、自動的に管理者としての役割が次第に回ってくるようになりました。管理、管理になっていき、技術者にこだわっていたかった私は、その会社にいることをあきらめ、転職することにしました。

第二次挫折期

 転職すると、真っ先に大企業の仕事をすることになりました。客先に常駐し、客先のシステムを作るわけですが、技術志向だった私に待っていたのは結局「管理」のストレス。しかも、技術に没頭できるわけでもなく、客先からのプレッシャーばかりで全く楽しくなく、仕事を始めたそばから後悔し、毎日がストレスで十二指腸潰瘍にもなり病院通い。毎日が嫌で嫌で、家族にも「もう辞めていいよ」と言われる始末でした。当時は「犬はいいよなぁ、尻尾振っていればエサもらえるんだから。俺はこんなつらい思いまでしてなぜ仕事をしなければならないんだろう?」と犬をうらやましがっていたぐらいですから、精神的にもヤバイ状況だったのかもしれません。

 「もうこんな生活はいやだ!辞めてやる」と思って、会社を辞める旨を上司に伝えましたが、独立する形をとって、どうせ仕事は無いだろうからと、今までと同じ仕事を続けることになりました。

 形は独立したので、その後はITコンサルタント関係の資格を取り、いかに早くそこから抜け出すかを考える毎日に変わりました。

 その頃、一緒に仕事をしていたマネジメント層の方たちが続々とその現場の業務を終了していき、ふと気がつくと自分がマネジメント職をすることとなってしまいました。

 マネジメント層の仕事なんてやったことがありません。今まで自分がされてきたように、数字で縛り付けたり、権力を使ったりしましたが一向に組織がよくなる気配がありません。そこで、多くの本に解決を求めました。多くの経営者やリーダーが心理学を学んでいることを知り、そのとき偶然であったコーチングという言葉や、NLPという心理学があることを知り、むさぼるように投資して学びました。

 いろんな手法を試して実践し失敗を重ねる中、体感として「組織を動かす方法」がわかってきました。周りでは「権力」や「管理」というマネジメントがされていましたし、世の中では「目標管理」「成果主義」がまだまだ言われていました。「目標をブレークダウンして、個人の目標に・・・」なんてことに違和感を感じていた自分が、「管理ではなく動かす」ということに面白みがあることに気づくようになりました。

決意期

 理論と実践を重ね、この方法ならうまくいくという体験ができ、「これを世の中に伝えられたらきっと、リーダーの負荷も低減して、仕事が楽しくなるはずだ。リーダーが楽しく幸せになれば、そこに働く部下も幸せになって、その家族も幸せになる。そんな連鎖が起こせたらみんな幸せだろうな」と思うようになりました。また、この頃、実際にマネジメントに悩んでいる方に関わる機会を頂き、最初は「会社を辞めたい」とおっしゃっていた方が「仕事が楽しい、辞めなくて良かった」といっていただいたことができ、経営者、管理者向けのコーチング、セラピー、カウンセリングに真剣に関わられていただきたいと思うようになり、現在に至っています。